私は「人間関係の基本」を語るようなものがない。
「それでいいよ」と塾長に言っていただいたので自分自身のことを語りたい。
私は人間関係と聞くと真っ先に「怖い、しんどい」と心に浮かび身構えてしまう。
相手が今の自分を認め、氣持ち良く受け入れてくれることを期待し、それを拒否され無視されることが怖いのだと思う。
先日の合宿で教わったように、自己概念を壊されるのが怖いから、とりあえず相手に合わせたり、自分が勝てそうな相手には強がり、どうしていいかわからない時は無関心を装う。すべてを総動員して相手から逃げ続けている。
50歳を過ぎてもやっている。
そうやって表面上で痛い目に遭わなければ良いという人生はむなしい。
大宝に入社して嬉しかったのは、自分が良い人間ではない、自己中心だということを、ごまかさず出しても良いと教えていただいたこと。
それでも本当の自分を認めるのは怖いが、もし大宝で学ぶ機会がなかったら、自分が人を怖がっていることも分からず、相手や世の中が悪いと思っていた。
人に対する恐怖心は何の努力もしなければ年齢を重ね、肩書きが上がるほど大きくなっていく。
本当の自分を認めず、相手に否定されたくないと恰好をつける。そんな自分が今日までお世話になっていることに感謝している。
5年ほど前から伊藤塾長に「お前はエライ人だ」「威張っている」と突き放されるように言われることがある。
その意味が分からず「私は威張っていません」と被害者意識を持っていたが、相手より楽に優位に立ちたいために相手の弱いところに自分の強みをぶつけている人の痛みや悲しみに氣づかず攻撃し自分を守ろうとする自分の人間性の低さや、他者に対する共感性の低さを教えていただいているのだと、やっと少し氣づくことができた。
経済的な条件や家庭環境、育成歴、親の職業、国籍など、お互いに自分ではどうしようもない条件を持っている。
その中で相手が痛みに思っていることを感じられず、踏みつけにしてしまうと、相手との関係が悪くなる。相手との関係をじっと見つめてゆくと、自分がやっていることのいやらしさや残酷さに氣づくことができる。
「悪いことをしてしまった」と認めることができる。そこから相手への共感が生まれる。それが相手に近づく道だと思う。
大宝は先ほどお話したように本人がどうしようもない条件で人を差別しない。
チャンスは平等にあり、努力した結果は公平に評価するという「門戸開放」の考え方が経営の基本方針にある。
それは方針を掲げれば守れるものではなく大きな心で社員を愛し、様々な条件を乗り越える勇氣を与え、心から支援して下さる方がみえるから、こうして勉強することができる。
自分のことが少しずつ分かり、人と一緒に生きられることに感謝している。
「因縁」の因は自分自身、縁は自分以外の人や環境。自分が意識しようがしまいが、人間関係の中で生き、生かされている。
出会う他者、すべてのものとの絡み合いの中で人生がつくられている。
これからもサムシンググレート(偉大なる力)の物差しは持たないか、少しでも意識し、人を怖がり逃げ回っている自分が分かるよう、学び鍛えてゆく。
今日の和合塾は合宿の3日後です。
このスケジュールを組んだ人はかなり勉強好きですね。
もう一つ笑える話があります。
先日、港支店の 中さんの乗用車が盗まれました。日曜日の業務を終え支店に帰ってきた時、車が無くなっているのに氣づき、すぐ警察に電話したそうです。
車輌部にトラックを持ってきた三好支店の新入社員が、社用車と勘違いして乗って帰ってしまい、大騒ぎだったそうです。
私と 中さんは一定の信頼関係があるので、こうやって面白がっていても、本人が笑っていますが、もしこれまでの関係が無ければ怒るはずです。
このように人間関係は、ほんのちょっとしたことで変わるのです。
私たちは色々な縁があり知り合います。約千年前、30世代さかのぼると、およそ10億人の血すじと関わります。
今、戸籍上は他人でも、千年前は隣に住んでいました。
みんな親戚だったのです。そうやって考えると、そんなにケチなことを言わなくても良いのです。
しかし、遺伝子も育った環境も違う者同士です。人間関係が本当に得意という人は少なく、できれば逃げたいと思っています。
そして自分の立場を悪くしないように考え、色々なことをします。ちゃんと話し合えば仲良くなれるのですが、それをしないので仲良くなれません。
また、みんな阿呆、強欲、小心ですので、自分だけ良いことがないかと考え、平氣で人を利用する人もいます。
それではまともな人間関係は生まれません。
最近、「こうもり党」「まぁまぁ党」「大小物党」の話をしますが、これは人間関係の持ち方の一つの比喩です。
お互いに阿呆、強欲、小心さの割合によって、どこかの党に属しています。
自分はどの党に入るか考えてみてください。
@自分との関わり方が第一歩
人間関係で一番大事なことは、自分を知ることです。
自分が分からない人は、いつもごまかし、ビクビクしていなければならず、まともな人間関係をつくることはできません。
なぜこんなに人を怖がるのか、人を信用できないのかを知るには、自分がどういう人間なのかを知る勉強をするしかありません。
なぜ他人を怖がるのかというと、自分が自己中心で他人を大切にせず、約束を守らず義がないから、自分という人間を通じ他人が怖いのです。
多少自分が分かり人間が分かってくると、前よりも人間が怖くなくなります。
そうすると顔つきまで変わってきます。人を怖がるから力んだ顔になるのです。
A他者との関わり方
自分と同じ人は一人もいません。また凡人の私たちが阿呆、強欲、小心な物差しだけで測り、「自分が言っていることは絶対に正しい」と言い、怖くて力むから、つまらないところでケンカになります。
これは対人関係のスタイルの一つの例です。
《現象として》
@人によって仮面を変える
A人によって間合いを変える
《その背景として》
@自分に都合の良い条件が欲しい
A人を信じられない
《その本質としてあるものは》
@嫉妬心
Aさみしさ
B不安
何も学ばず、何の修行もしなければ、いくら恰好をつけてもひどいものです。
自分に都合の良い条件を得るためなら、恩義も平氣で忘れます。
人から受けた好意に感謝し報いたいと努力する恩義は、阿呆、強欲、小心さの大きさに反比例します。
今の自分から脱皮するために「もうそろそろ鎧を脱げよ」と言うことがあります。本当の自分をごまかすために何らかの鎧を被っている間は、肉体的には大人でも精神の自立はできず、大人になることができません。
そのままでは、人やもの事をキチンと見ることができず、次のような行動に現れます。
@事実を見ない
A言われたことを聞かない
B考えない
C自分から発信しない
Dもの事をはっきりさせない
E感じない(共感性が弱い)
F関わらない
こうして人やもの事と向き合うことをしなければ、仕事でも成果を出すことはできません。
自分が成長し仕事や人生を面白くするために、自分が着ている鎧について考えみてください。
良い人間関係をつくる時に、とても大事な要素は、愛嬌があるかどうかです。
愛嬌は迎合やヘラヘラ笑いとは違います。
その一番元は無欲と至誠(ウソを言わないこと)です。自分の強欲が分かり少しコントロールすることによって、無欲と至誠からにじみ出てくる分泌物のようなものが愛嬌です。これがなければ社内でもお客さまからも信頼されません。
利口な人間が利口を出すほど、厭味なことはなく、バカなくせに利口ぶるほど、みすぼらしいものはありません。
企業は利益を上げなければなりません。それを生み出すためにも、お客様から愛される企業でなければならず、個人や組織に面白さや愛嬌が必要です。
それを持とうと思うと、利害から離れた何かがなければなりません。
また頑固さとは自分にとっても多くの人にとっても、都合が悪いけれども、本質的には正しいことを言い続けることです。
頑固さと間違えやすいのが迷妄ですが、これは本質的に間違っているのに正しいと思い込んでいることです。
金山支店の藤目さんは、一部分頑固さを持っています。
これから勉強し続けたら愛嬌も身に着きます。部下を活かすには、上司がそういうことが分からなければなりません。
人生は「で・あ・い」です。どんなに格好をつけても
で
たらめな人間であることを知ること。
学びによって自分も他人も
あ きらかにし、もの事に目覚め、氣づき、自覚することで幅を広げ深めること。そして、いい加減であるということです。
い
い加減とは、塩梅=バランスがとれている状態です。
そういうことを教えてくれる人が先生であり、多少でも分かるようになる場が人生の道場です。
自分に都合の良い人=良い人と思いたいのですが、そんな単純なものではありません。
自分自身をより深く知り、こういったことを考え、実践し身につけていってください。
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